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「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」
というものがありますね。
さて、この言葉は本当でしょうか?
真実なのでしょうか?
世界全体が幸福にならないうちに、個人が幸福に
なることは、ないのでしょうか?
↓(思索タイム)
いかがでしたか?
もちろん正解などはありません。
皆さんそれぞれに、
ご自分なりの考えを深められたことと思います。
「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」
「たしかに高尚なことを言っているようだけど、きれいごと
のようにも聞こえる。これは必ずしも本当ではないのでは
ないか。世界全体が幸福にならなくても、個人の幸福は
実現し得るのではないか」
と感じました。
「だから、まずは自分の幸せだけを考えて生きればいい
のではないか」
とも思いました。
たしかに、目標を達成する(願望を実現する)ということは、
嬉しいことです。
幸福感や達成感も得られます。
しかし、そこで得られるのは、実は一時的な感情です。
一時的な感情(幸福感、達成感)を得るということと、
真の幸せを実現するということは、まったく別物だったの
です。
具体的に言いますと、
たとえば次のような目標を達成された方たちがいました。
・ 理想的な額の年収を得られるようになった
・ 多くの人から認められ、尊敬されるようになった
・ 仕事で成功できた
・ マイホームと別荘を手に入れた
・ 充分な資産を築けた ・・・等など
そして、
これらの目標を達成していながら、幸せではない人。
これらの願望を実現していながら、精神的には満たされて
いない(あるいは一時的に満たされたが長続きしない)人。
そんな人をたくさん見たのです。
その人たちは、望んでいたものを手に入れていながら、
優越感と劣等感の間を行ったり来たりして、安らぎを感じ
るひまもなかったり、
手に入れたステイタスや収入を失うことへの不安に駆り
立てられていたり、
なぜか友人が離れていって孤独になっていたり、
築きあげた実績に縛られて自由な生き方ができなくなっ
ていたり、
手に入れた力(影響力、発言力)に頼るようになって、
謙虚さを失ったり・・・
こちらから見て、
「この人は、目標を達成する以前の方が幸せだったの
ではないか」
と思えるケースも決して珍しくありませんでした。
そんな方たちの中には、
妄信的なポジティブシンキングに陥っている方もおられて、
上記のような現実に向き合おうとせず、
「私はハッピーだ!すべてはうまくいってる!これでいいの
だ!なんの問題もない!さらに大きな目標に向かって突き
進むのみ!」
って感じで、突っ走ったりされます。
しかし中には、自分の現実と向き合う勇気を持つ方もおら
れ、
ご自分と向き合われた結果、
「目標を達成する以前の方が、はるかに充実していたし自
由だった。自分自身も謙虚だったし、友達もたくさんいた」
ということに気づかれたりしました。
さて、ここで誤解していただきたくないのですが、
「目標を達成したら不幸になる」 という話では、
もちろんありません(^^;
実際、
「目標を達成して、しかも精神的に満たされている(=幸せ
な人生を実現している)」 という人もいらっしゃいました。
その人たちの話を伺っていて、
その人たちが精神的に満たされている根拠は、
目標の達成や願望の実現とは全く違う次元のものである。
ということに気づきました。
つまり、その人たちは、
目標を達成したり願望を実現したりしたから満たされたの
ではなく、
それ以前から、心のあり方によって、精神的に満たされて
いたのです。
また、このことに関連して、次のことにも気づきました。
「目標を達成する(願望を実現する)ことが、幸せな人生を
実現する条件だ」 と信じている人、つまり、
「目標を達成する(願望を実現する)ことによって幸せにな
れる」 と信じている人は、
仮にその目標を達成(願望を実現)したとしても、
得られるのはその場の達成感・幸福感だけであって、
精神的に満たされることがない(=幸せな人生を実現でき
ない)、
また、目標を達成(願望を実現)していくプロセスを楽しむ
ことができなくなる(駆り立てられるようになる)。
以上の事実に気づいたものの、
なぜそうなのかは説明できませんでした。
ただ、たくさんの人を観察すればするほど、
取材すればするほど、
上記の事実を確信するに至るのでした。
(この事実に関しては、現在出ている本では、
『成功して不幸になる人びと』(ジョン・オニール著、ダイヤ
モンド社)という本が参考になります)
そして
「人は自分の器(=人格)にふさわしい人生を実現する
のではないか」
『7つの習慣』という本に出会い、
人格主義という言葉を知り、
「これだ!」 と確信を強めました。
さらに、安岡正篤氏のご著書などに触れて、
「人は自分の器にふさわしい人生を実現する」
という真実が、はるか昔から語られていたということを
知り、
「もっと本(特に古典)を読まなければ!」 と感じました。
話を整理しますと、気づいた真実は、
「幸せな人生を実現したければ、幸せな人生を実現するに
ふさわしい器(=人格)の人間になるしかない」
ということです。
逆に、
「自分の器を大きくする(=人格を磨く)」という本質的方法
以外のやり方によって幸せを得ようとすると、空回りする。
とも言えます。
つまり、「目標の達成や願望の実現によって幸せになれる」
という錯覚は、空回りを起こす。
さらに言いますと、
ちょっと怖い言い方かもしれませんが(^^;
“その人の人間としての器”以上の願望を実現した場合、
その人の人生は転落を始める。
ということなのです。
つまり、その人の心の波長にピッタリの人生に戻すべく、
様々な出来事が起こるわけです。
だからこそ、
願望の実現を目指すことを主軸にして生きるよりも、
自分の人間としての器を大きくすることに意識を集中させ
て生きる方が、
はるかに効率的だし、
幸せに直結した生き方と言えるわけです。
(逆に、目標や願望への執着が、人生の苦しみの原因に
なることも多々あります)
「幸せを決めるのは“心のあり方”である」
というシンプルな原理にたどりつきました。
この原理は、
「幸せになるための条件は“心の豊かさ”である」
と言い換えることもできると思います。
(この原理こそ、賢治の言葉が真実かどうかを検証する鍵を
握ります)
さらに、その“心のあり方、心の豊かさ”というのを追求した
結果、
「心の豊かさをもたらすものは “感謝” と “貢献” である」
ということに気づきました。
つまり、真の幸せを実現する人は、
次の2つを満たす人であると気づいたのです。
1.「いま生きていることがありがたい。毎日がありがたくて
ありがたくて・・・」 と、当たり前のことに心から感謝して
いる。
2.「自分は、誰か(家族や会社や社会や地球)の幸せに
貢献できている」 という実感を持って生活している。
今まで、たくさんの方を見てきて、
「上記の2つを満たしていながら幸せでない」という人を
一人も見たことがありませんし、
「上記のどちらかを満たしていないけど、心から幸せな
人生を実現している」という人も見たことがありません。
(ただし、ここで言う幸せとは、一時的な幸福感のことで
はなく、深いレベルでの幸せ、つまり真の幸せです)
1の「感謝」が要(かなめ)であろうと思っています。
つまり、「感謝」に満たされれば、
自然に2の「貢献」という状態も実現する。
だからこそ、「感謝」が鍵を握ると思うのです。
これはつまり、
「真の幸せを実現するには、感謝力を高めること」
と言ってもいいと思うんです。
感謝力が高まった状態とは、
当たり前のことに、心から「ありがたい」と感じられる状態
です。
日常のなにげないことに喜びを感じ、感動・感謝する心境
です。
では、この状態に至るためには何が必要か。
それは“豊かな感性”です。
当たり前のことを「有り難い(=めったにない。奇跡だ)」と
感じるようになるには、豊かな感性が必要なのです。
朝、目が覚めたことを喜べる感性。
住む家があることに心から感動・感謝できる感性。
食べるものがあることを「有り難い!」と思える感性。
そして人は、“感性”が豊かになってくると、
当然、“共感性”も豊かになってきます。
“共感性”は感性の重要な要素の一部であり、
感性と切り離すことができないものだからです。
ということは、
真の幸せを実現できるほど心が豊かな人、
つまり、日常の当たり前のことに心から感謝できるほど
感性が豊かな人は、
共感性も豊かであるがゆえに、
目の前に苦しんでいる人がいたら、その苦しみに共感
し、胸が痛む。
世界に苦しんでいる人がいると知ると、その苦しみに
共感し、胸が痛む。
結論として・・・
「真の幸せを実現するには心の豊かさが不可欠。
真の幸せを実現できるほど心が豊かな人は、
共感性も豊かであるがゆえに、
世界全体が幸せになるまで、胸の痛みから解放される
ことはない。
したがって、個人が真の幸せを実現するためには、
世界全体が幸せになることが必要条件」
という結論に至り、
「宮澤賢治の言葉は真実だ」 と感じるとともに、
「おー、人間って、なんて素敵な生き物なんだろう!」
と感動した次第です(^^
だから、
「世界には問題がたくさんあるかもしれませんが、そこには
関心がありません。私個人は本当の幸せを実現できました」
という人は世の中にいないと、思っています。
(実際に出会ったことがないですし)
仮に
「世界には問題がたくさんあるかもしれませんが、そこには
関心がありません。私個人は本当の幸せを実現できました」
と、思っている人がいるとしたら、
その人の考える幸せというのはまだまだ浅いレベルであり、
かつ、不安定な幸せ(=条件によって左右される幸せ)だと
思うんです。
釈迦やイエスや孔子のような人たちのことを想像するに、
世の中の不幸がすべてなくならない限り、
彼らの胸の痛みが消えることはなかったのではないかと
思うんです。
だから彼らは、胸の痛み(=悲しみ)を抱えながら、
死ぬまで休まず教えを説き続けたんだと思うんです。
だからこそ、崇高な生き方と言えると思うんです。
以上が、「賢治の言葉は真実だ」と考えるに至った経緯です。
賢治の言葉が真実だとしたら、やはり、
私欲(小欲)を追求して生きるよりも、
志(大欲)に生きる方が、幸せへの王道だと思います。
ただ、「志に生きる」というと、
「自分を犠牲にして公に尽くす」 というような、自己犠牲的な
暗いイメージを持たれる方も世の中にはいるのですが、
志というのは、
自分の中のワクワクを大切にしていった延長に見出される
ものだと思います。
自分の幸せだけを追求する生き方は空回りすることになるし、
何よりも虚しい生き方だ。
かといって、
自らの幸せを犠牲にするような生き方はしたくない。
まず、「世界全体の幸福に貢献できる人間になる」という志を
持とう。
そして、自分の幸せを大切にしながら、
同時に、ワクワクできる範囲で、周りの人たちの幸せに貢献
していこう。
以上、“幸せ観”みたいなものをお話ししました。
皆さんがご自分の幸せについて考えられるきっかけになれば
嬉しいです。
あとご参考までに、
宮澤賢治の『農業芸術概論綱要』の序論の言葉を紹介します。
「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。
自我の意識は個人から集団的社会宇宙へと次第に進化する。
この方向は古い聖者の踏み、また教えた道ではないか。
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある。
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識して、これに応じ
ていくことである。
われらは世界のまことの幸福を索ねよう。
求道すでに道である」
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
※これは、野口嘉則さんのメルマガです。
非常に共感できる内容なのでブログにアップさせて貰いました。